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僕だって他力本願に生きたい

大学生ゲイの諸行無常な日々

あの日 -後篇-

テレビから大きな笑い声が聞こえてきて,僕は我に返った.自分の目に涙が滲んでいるのを感じた.彼は平然として,相変わらず雑誌を読んでいた.僕は自分の頭が現実を扱いきれていないことを感じた.疲れている.もったいない,と思った.もっとはっきりとした意識の中で,彼と接していたかった.

ゲイの男性にこうやって抱きつくのは,これが最初で,そして最後なのだ,とぼんやりと思った.なぜなら僕は,ストレートのふりをして生きてかなければならないのだから.そのために彼女との関係を築いてきたのだから.両親も親戚も,みんなが僕が早く結婚して,子供の顔を見せに来ることを望んでいるのだから.

「どうしてゲイになってしまったんだろう」と僕は呟いた.喜怒哀楽が入り混じったわけのわからない感情があった.「どうしようもないな」と彼が言った. 僕はその後も三十分くらい,彼の背中に寄りかかっていた.自分という人間がどのように形成されてきたのか,どこから歯車が狂ったのか,記憶が乱雑に浮かんでは消えていった.

 

午後十時半だった.僕はそろそろ帰る旨を伝えた.彼はいつもと変わらずサバサバしていて,寂しかった.しかし,相方のいる彼にとっては僕はただの世間知らずな一人のゲイに過ぎなかった.タイプでもないことは薄々感じていた.友達として,適度に優しく接してくれただけだったのだ,そう気付いて,一気に悲しくなった.

外に出ると,こんな日に限って雨が降り出していた.僕は大学に一度戻り,気持ちを落ち着かせてから帰路についた.風が強く吹き始め,傘を指すのも億劫になり,濡れながら黙々と国道沿いの歩道を進んだ.すれ違う車のライトに,振り込んだ雨が乱反射していた.

十五分ほどで下宿に到着した頃には,ずぶ濡れだった. 玄関の扉を閉め,かすれ声で何か叫んだ.今日,つい先程,僕は初めて同性にカミングアウトし,初めてゲイに会った.僕はゲイとして初めての告白をし,それは同時に片思いで,失恋だった.事態は単純だったけれども,僕の頭全体がそれを理解することを拒んでいた.

 

理屈では何もかもわかっていた.僕は願っていたことが叶った一方で,望んでいたものは手に入らなかった.それだけのことだった.しかし,その時の疲れた僕には,自分が何を望み,何を期待して,何を失ったのかすらわからず,呆然とベッドに潜り,頭の中ではずっと堂々巡りが続き,午前三時頃にどうやら眠り,目を開けた時には日がすっかり昇っていた.

頭は少しはっきりしていた.僕はこれからどうすればいいのだろう? 彼のことは好きなままだった.でも,彼女のことも頭に浮かんで,今度はなかなか消えてくれそうになかった.雨は上がっていて,取り込み忘れた湿った洗濯物がベランダで揺れていた.今日から連休だから,もう彼にはしばらく会うことはない.

 

 

後から思い返せば,あの日は僕にとって,セクシュアルマイノリティという氷山の一角に降り立った最初の日であった.いや,厳密には,思春期からずっと変わらず僕はそこに立っていて,自分では地上に移ることを決意してとっくに歩き始めているつもりだったのだが,それは残念な錯覚だった.

そして僕は,水面下にずっと大きく重く,想像が追いつかない複雑な世界が広がっていることにも無自覚であった.今でさえ,それほど僕の視野は広がってはいない.ただ,まだこの先があることだけが唯一の僕の救いにもなっているし,足かせにもなっている.(続く)