読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

僕だって他力本願に生きたい

大学生ゲイの諸行無常な日々

あの日 -中篇-

僕はほとんど衝動的に,彼の身体に触れてもいいか,と聞いた.彼は「上半身だけならいいよ」と平然と許可をくれた.その答えを聞いて,今日始めて救われた気がしたが,同時に目が回りそうだった.ゲイとして,男性に触るのは初めてだった.そんな機会が来るなんて,思いもよらなかったことだった.

僕はずっと諦めていたからだ.人間関係において,そもそも内向的過ぎた僕は,ノンケ男子同士のスキンシップですら経験がなかった.ましてやゲイとして他人と関わるなどということは,違う世界のことで自分には一生縁がないのだと,ずっと思ってきた.以前,冗談半分に彼の頭を何度か撫でてみたことがあったが,嫌がられないかびくびくしたものだ.

 

ほとんどのゲイには,笑われてしまうのだろう.中学生の初恋じゃないのだからと.確かにそうだ.僕は随分時間を無駄にして,何も経験することなく大学まで来てしまった.小学校の頃からずっと,教室の隅で独りで本を読んでいるような性格で,友達付き合いが苦手で,自分が誰かと恋愛をするという発想自体をいつの間にか失っていた.

長い年月をかけて,ようやくツケが回ってきたのだろう.自分の中にある人並みの感情に蓋をし続けてきたツケが.自分のセクシャリティを無視し続けることなど,所詮不可能だったのだ.女性と交際していようと,人付き合いを避けようと,こうして結局,振り回される.そして,今更解決しようにも経験が圧倒的に不足している.

 

僕は彼の背中側に移動した.そして恐る恐る,背中に寄りかかった.Tシャツ越しに彼の背中の温かさを感じた.彼の匂いがした.彼は頭を後ろに倒し,僕の頭と触れるようにした.彼の短い髪が僕の頬をさすった.お腹に回した僕の手を,彼の華奢な指が撫でていた.その自然で慣れた動作を,おそらく恋人との関係で培われてきたのだろう経験を,僕は素直に喜べなかった.

しかし,あの時,目を閉じて彼に抱きついていた時,いつも後ろから眺めるだけだった彼の背中に実際に触れていた時,僕は間違いなく幸せを感じていた.これまでのことなんて,どうてもいいと,僕は心の底から本気で信じていたのだ.今,こうして好きな彼に抱きついて,それを彼が受け入れてくれている.夢でも妄想でもなく,現実の彼が.

 

僕は幸せだった. 

 

かつてこんなに幸せを感じたことがあっただろうか.彼女と付き合い始めた頃だって,同じ気持ちの昂ぶりを感じていたのだろうか.思い出せなかった.自分が何を抑圧してきたのかを薄っすらと認識したのは,この時である.好きな男性に抱きつくこと.自分がゲイであることを知った上で,ゲイとして抱きつかせてもらえること.

それが当然の世界がある.そして,僕にはそちらへいく手段がある.これが幸せなのだとしたら,本当に好きだということだとしたら,僕はもうノンケのふりなんて続けられない.自分のセクシャリティを押さえ込んで,彼女との曖昧な関係を維持することは,到底できない.

自分が知らずにごまかしてきた世界のすべてを,僕は経験したい.しなければならない.後悔と,好奇心と,期待と,恐怖と,現実なのか妄想なのかも判然としない思考と感情が,僕の中で絡み合い,ねじれ,積み上がった.見なかったこと,知らなかったことになんて, もうできはしないのだ.

 

ならどうする.五年も交際した彼女と別れるのか.自分がゲイであることを知った上で一緒にいたいと言ってくれた彼女に,何一つ否のない彼女に,やはり男の方が幸せを感じられるからと言って,それで平然と次に進めるのか.結婚や子育ては諦めるのか.両親はなんて言うだろうな.

でも僕はこのままじゃ駄目なんだ.絶対に駄目なんだ.たとえこれが衝動的な行動で,理性がすべてを否定していて,自分を愛してくれている人を巻き添えに悲しませても,僕はこれ以上,自分の本質から目をそらすわけにはいかない.こんなところで自分の人生の可能性を閉ざすことは絶対に許容できない――.(続く)